塩狩峠

塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)

読みました。キリスト教を、疑いもなく信仰している人が、自らの信仰に基づき書いた本だなぁという印象。まぁ、三浦綾子さんは詳しく存じ上げないのですが、はずれてはいないのではないかと思います。


ちょっとアマゾンのあらすじ紹介には不満があるので一言申したい。・・・そこじゃね〜だろ!!と。

結納のため札幌に向った鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた…。明治末年、北海道旭川塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、愛と信仰に貫かれた生涯を描き、人間存在の意味を問う長編小説。

こんな感じですが、乗客の命を救う瞬間なんて最後の数ページ。その行動にいたる、主人公のキリスト教信仰への過程が大半をしめているので、そこを書いたほうが良いんじゃないかと思いました。


あとは「愛と信仰に貫かれた生涯」っていうとこね。主人公は士族の生まれでキリスト教を差別的に嫌っている、典型的な当時の日本人でした。あるとき、幼い頃に別れた母と再び一緒に暮らすことになり、母の信仰しているキリスト教に触れるのです。
そこからは青年期を通して、キリスト教をひたすら否定していく主人公なのですが、まぁなんだかんだとあって信仰にいたるんですよ。←今にも内容に深く触れそうなので曖昧に。


ただ、キリスト教を否定していた主人公が、献身的なキリスト教徒になる瞬間の描写に合点がいかない。なんで、いきなりそうなんの?と思ったりする。な〜んか動機がはっきりしないのよ。いや、幼い頃から惹かれつつも反射的に嫌っていたのが、ある瞬間にわだかまりが消えたって説明されたらそうなのかもしんないけど、そんなんじゃ納得できない。
そこが違和感を感じるところで、釈然としないとこなんですね。ちょっと理由が分からなかったのですが、ずっと考えていたら分かったような気がしました。きっとそれは僕がキリスト教を信仰していないからなんだな。


きっと作者の中ではキリスト教っていうのは無条件で善なんだろうと思います。
だから、主人公が持っていたわだかまりが解消された瞬間に、幼い頃から触れていたキリスト教を良いものなんだと考えるのは自然でしょ?って言われてるように感じます。でもさ。僕みたいな信仰していない人間からすると、その論理には違和感を覚えざるをえない。作者もそこらへんは分かっていてなんとか隔たりを解消しようと、主人公に一からキリスト教の否定をさせたりするのですが、根底に流れる価値観はやはり香ってきます。


僕も父の友人は牧師さんだし、幼い頃から礼拝にも何回か行ったことがある。キリスト教によって、精神的に救われている人にも出会ったことがあるし、団体の有意義な活動も知っている。いや、参加したことすらある。
特にわだかまりなんてないけど、だって俺は別に信仰にはいたらないのよ、とね。思ったりするのです。多分一番気になるのは、教えは幼い頃から近くにあったとしても、何故信仰していないはずの主人公は神の不在を疑わないのか。そこをクリアしてから信仰へ至って欲しい。


そういう点で、僕としては同じキリスト教を題材にしていても「沈黙」や「深い河」の方が納得がいくし、教えうんぬんも大切なのだろうが、神とともにあることをどう考えるのかという教会が目くじらをたてそうなテーマのほうにシンパシーを感じるのです。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

↑深い河については、前に書きました。